薬草園の紹介

薬草園の概要

岐阜薬科大学薬草園では、現在117科約700種を栽培、保有しています。

薬草園と薬草園研究室の沿革
岐阜薬科大学50年史によれば,本学初の薬草園は,帝国在郷軍人会岐阜支部より金華山麓の岩戸に600坪(1,980㎡)の土地を借用したものであり,開拓には主に植物研究部員らがあたり昭和12年に開園したとある.昭和14年には本学の前身である岐阜薬学専門学校構内(岐阜市九重町)に温室が完成し,隣接して薬草園も整備され,岩戸の薬草園は昭和22年に閉園している.昭和38年に園夫の嘱託が始まるまでは,薬草園の管理運営は生薬学の教員と植物研究部員によって行われていたようである.現在は,嘱託ではなく外部委託による管理をしている.ただし,扱う植物が多種であることから,公園管理や造園の管理とは異なるため,担当園夫と常に作業については,常に薬草園研究室の職員と打ち合わせを行っている.昭和40年の岐阜市三田洞への学舎移転にともない,温室および薬草園もそれぞれ三田洞構内に完成しましたが,三田洞構内では手狭だったためか,昭和46年には現在の岐阜市椿洞字東辻ヶ内935(三田洞より約4㎞)に移転している.面積は9,202㎡となり,その内1/3には自然林を残している.温室(66.23㎡)と作業管理舎も整備されている.薬用植物の見本園と,研究材料の栽培および試験栽培を目的とした試験園からなり,薬木,水生植物についても栽植された,教育・研究を目的とした大学施設の完成ということになる.自然林を利用して,林床にはオウレン,イカリソウなどが栽植され,昭和57年に中国南京市にある南京薬学院(現:中国薬科大学)との姉妹校提携に基づいて薬草の種苗や標本の交換が行われ,薬草園にも中国薬草コーナーが設置されている.私が入学してからは,昭和63年に薬草園西側道路拡幅工事により水生植物池と圃場の一部が200m南に移設され,3ヶ所に分かれた状態になっている.パンフレットには117科約700系統の植物を保存していると書いてあるが,現在は,枯れてしまったり,新たに導入されたりと出入りがあり,植物目録の改訂を検討中といったところである.

一般公開は,私の在学中に始まり,ガイドボランティアに支えられて現在も進行中である.また,ハーブへの関心が高まる中で,ラベンダー,カミツレ,セントジョーンズワートなどハーブコーナーも設置している.特にハーブコーナーに関しては,研究生でハーブの店舗を経営している方に協力を頂いている.

本学には,もう一つ高冷地栽培に関した圃場がある.昭和49年に岐阜県高根村(現:高山市)の子ノ原高原に寒地系薬用植物の栽培指導を目的に,岐阜薬科大学指導薬草園が設置された.その後,山林の寄付(33,912㎡)の申し入れがあり,昭和53年に製薬研究所内に子ノ原川島記念演習園が設立し,同時に植物生態学研究施設が設置され,初代の施設長には水野瑞夫助教授(生薬学 併任)が,専任として田中俊弘助手が任に当たったとの記録がある.こちらは大学から150km以上離れており公開は行っていないし,一般学生も訪れることは殆どない.昭和56年には植物生態学研究室に組織変更され,これが薬草園研究室の前身となる.植物生態学研究室では,子ノ原演習園予定地の植生調査,寒地系薬用植物の移植,自然環境保全をテーマとした研究が進められてきた.東側の1/4は自然の植生遷移を観察する目的で一切手を加えない山林区を設けてある.10㎡に区切られた圃場には寒地系薬用植物として国立衛生試験所北海道薬用植物栽培試験場(現,独立行政法人医薬基盤研究所薬用植物資源研究センター北海道研究部)から分与を頂き共同で栽培研究を実施したこともある.

昭和63年からは薬草園研究室となり,平成11年薬草園研究室に教授が誕生した.その結果,生薬学講座の教授が勤めていた園長を,田中俊弘教授が勤めることになった.平成13年には酒井英二が助手として採用され専任教官2名とる.平成20年3月で,田中教授が退官されたため,薬草園長は田中稔幸教授(薬用資源学研究室)となり,平成26年4月に酒井が教授に昇格し園長となった.

岐阜薬科大学

ボランティア

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